寛永文化サロンの主人・松花堂昭乗
江戸時代初期の寛永年間(1624~1644)は、公家・武士・僧侶・町衆などの階層に優れた芸術文化が生まれ、花開きました。この文化の形成に大きな役割を果たしたのが、社僧・松花堂昭乗(1582~1639/※1)であり、この時代の超一流の文化人でありました。
我が国では、明治維新まで神と仏を併せて祀る神仏習合で、石清水八幡宮の境内には男山四十八坊と称された数多くの社僧が住む坊(寺)がありました。昭乗は10代半ばで石清水八幡宮の社僧となり、瀧本坊の阿闍梨実乗を師として修行に励み、真言密教を極め、後に僧として最高の位である阿闍梨となりました。
昭乗は風雅を愛で、幾多の優れた作品を今に伝えています。特に書は、瀧本流・松花堂流という書風を確立し、近衛信尹、本阿弥光悦と共に寛永の三筆と称せられています。昭乗の生み出した書流は、江戸時代200年の間、書の手本として命脈を保ち続けました。また、画は人物画、花鳥・山水画において当代随一と高い評価を得ています。そして、昭乗の茶の湯は、寛永の文化人が集った茶会であり、小堀遠州を始めとする武家、近衛信尋などの公家、沢庵和尚・江月和尚や石川丈山、淀屋个庵など僧俗に及ぶ綺羅星のような人達と交友を持っていました。昭乗が所持し、当時坊に伝わっていた茶道具類は「八幡名物」として、今も珍重されています。
寛永14年(1637年)、昭乗はそれまで住職であった瀧本坊を弟子に譲り、泉坊に「松花堂」と名付けた方丈を建て、侘び住いの境地に入り、寛永16年(1639年)に生涯を閉じました。
※1:松花堂昭乗の生年については二説あり、「中沼家譜」では1582年とし、佐川田昌俊の著した「松花堂行状」では1584年とします。
松花堂弁当発祥の地
-松花堂昭乗と松花堂弁当-
今では、お弁当の代名詞といえるほど知られている「松花堂弁当」。その名前の由来は、石清水八幡宮にあった瀧本坊の住職を務めた昭乗が好んだ四つ切り箱が器の基になっています。昭乗が、農家の種入れとして使われていた、箱の内側を十字に仕切った器をヒントに、茶会で使用する煙草盆や絵の具箱として使用したようです。江戸時代に遠州流の茶人が瀧本坊で行った茶会の茶会記に、「瀧本の墨絵」のある春慶塗の器が「瀧本好」のたばこ盆として記されています。
大正時代以降、昭乗の菩提寺である泰勝寺(京都府八幡市)では、同様の器がお斎(注1)の器として使われています。昭和の初め、日本料理「吉兆」の創始者が松花堂の地を訪れ、昭乗の好んだ「四つ切り箱」を見そめ、器の寸法をやや縮め、縁を高くして、料理が、おいしそうに、美しく盛りつけできるように工夫を重ね、蓋をかぶせて、茶会の点心等にだされました。器が十字に仕切られていることが大切で、煮物、焼き物、お造り、ご飯などの食材同士の味や香りが混ざらないため、それぞれのお料理がおいしくいただけるとともに美しく盛り付けすることができます。まさに機能と美しさを併せ持つ器です。こうして作られた弁当は、昭乗に敬意をはらって「松花堂弁当」と名付けられ、同様のスタイルの弁当が「松花堂弁当」の名称で世に広まっていきました。400年も前に昭乗のアイデアによって利用された器が、現在も全国で利用されていることに、昭乗の、多才な才能が、後世の人々も引きつける発想力と美意識を備えていたことが「松花堂弁当」にも窺えます。
(注1)お斎(おとき)…法事、法要後の会食。膳。